介護ストーリーは突然に

突然介護をしなくてはならなくなった中年男性の日記です

ケアマネージャー探し

6月にもなると、リハビリにもなれてきたようなじじさん。

 

簡単な数式の計算や漢字の書き取りなんかは問題なくできるものの

図形の問題になるとてんでダメ。どうやら空間把握能力に異常ありのようです。

記憶障害の方も変わらずで、面会に行く度に家族の事を話すも、兄弟の一人の名前が出てこなかったり、よく遊んであげていた孫の名前なんかが出てこない。

 

運動能力に関しては歩行器をつかいながらであれば、少しの移動はできるようになり、座位をずらして車椅子にのったり、上着だけだったら自分で着替えることもできるようになってきました。

 

リハビリも順調に行ってる中で入院先の相談員さんにそろそろケアマネージャーさんをみつけましょう。と提案をされる。

 

ケアマネージャーは、ケアプランや各事業所との橋渡しや調整を行ってくれるスペシャリストのことで、今後の介護生活においてとっても重要な人のことです。

 

そういえば、ケアマネージャーに関して役所の方でも早くみつけないといけないとせかせれていたので、役所に相談に行ったところ、近所の地域包括支援センターに出向き相談しました。

地域包括支援センターというのは基本的にケアマネージャーの紹介などは行っていないので、自分で調べて依頼をするのだけど、ケアマネージャーをどこに頼むか調べてもレビューサイトがあるわけでもないし、何を基準にして良いのかわからなかったので、どうにか紹介をしてもらえないかと地域包括支援センターの方にお願いした所、一人の女性ケアマネージャーさんのGさん(仮名)を紹介してもらえることになりました。

 

今も継続してケアマネージャーをしてもらってますが、良い人を紹介してもらえたおかげで、その後の介護に必要なこと、わからないことなど、丁寧に教えてもらい今日までやってこれました。

やはりケアマネージャーさんといっても人間ですので相性はすごく大事です。最初は相性が悪かったらどうしようなんて不安な気持ちもありましたが、杞憂でした。

本当にすごく良くしてくれる人に出会い、助かっています。

 

こうして、ケアマネージャーさんが決まったので、次は自宅介護を視野に入れたプランを考えていくことになりました。

介護認定調査をしなくてはならない

リハビリも続き、5月にも入る頃。

本当なら転院する前にするはずだった介護認定調査をすることになりました。

転院してすぐには調査ができなかったために、少し体の様子を見て行うことになったので転院から2週間程度で調査員の方が病院に来て、介護士さんや主治医から意見書を書いてもらい、調査員さんの調査を元に審査がされるというものです。

 

じじさんの場合、高度脳機能障害になっている為、本来なら介護をする人間(この場合は私)の意見なども聞き取り調査をするらしいのですが、入院してる間は家族の同席はなしで、病院の診断と調査員の判断に委ねられることになりました。

 

介護認定調査というのは「身体機能・起居動作」「生活機能」「認知機能」「精神・行動障害」「社会生活への適応」という5項目から現在の状況をチェックします。

 

身体機能は入院から寝たきりが多かったため、下半身の筋肉は急激に衰え、明らかに細くなっていたので、自立して歩くのは難しい状況でした。

心肺停止からの脳梗塞で右手の麻痺はあるものの、足はなんとか動く状況ですが座位を保てるのも10分程度。

排泄はトイレまで連れてってもらって介助しながらではないとダメ、歯磨き、洗顔、整髪などは無理、衣類の着脱はリハビリで少しはできるようになってきたものの、やはり介助が必要。

 

認知機能は、意思の伝達は少しずつできるようになってきたものの、やはり言葉を思い出すのは時々怪しい感じ、自分の名前は言えるけど生年月日はスムーズに言えず、特に自分は今いる場所に関してが厳しく、病院にいるという事ができていないようだった。

 

あとは、情緒がとても不安定で、夜になると少し攻撃性が出てくる。どうやら暗くなることで警戒心がますらしいとのこと。普段大声を出さないじじさんでしたが、まれに自分の思い通りにならないようなことがあると、大きな声を出し苛立ちを隠せないような事が多いようでした。

 

認定調査の時の自分からみたじじさんはこんな感じ。

 

果たして、結果はどうなるのか…。

介護保険でまかなえる事って段階によってすごく変わってくるので、ここでの認定結果は今後に大きい影響が出てくるのです。

結果は1〜2ヶ月後とのこと。

プリズン・ブレイク

さて、4月からリハビリ専門の病院へ転院をして数日。

リハビリの様子はコロナも少し落ち着いてきた事もあり、事前予約は必要なものの見学ができるようになっていました。

 

面会に訪れると、何故か必ず私の顔を見て泣き出すじじさん。

なんで、泣いているのか聞くと寂しかったと。

父親の泣く姿なんて、これまで生きてきた中でそうそうなかった。

というか、記憶にない。

 

なのに、じじさんと来たら面会に行く度に泣くもんだから、こっちももらい泣きしそうになって困る。

 

リハビリ自体は体を動かす方は伸びしろがあるみたいで、段座った状態から車椅子に移る練習、トイレまでは介助してもらってそこで座る練習みたいのから始めて、知能に関してはやはり記憶障害が強く出ており、ここが病院という事がわからなくなり、自分の勤めていた会社の寮といいはったり(自営業だったので勤めにいった事とはない)、記憶がどうも混乱してる模様。

特に困るのが、夜が近づく夕方。自宅に帰ろうと、ベッドから体を動かし、プリズン・ブレイクばりに脱獄を図り、何度もベッドから転落して床に伏せている父を発見され、病院からその度に連絡がくるということ。

あまりにその回数が多いのでベッドを壁側に移動してもらったり、感知センサーなどを置いてもらったりと病院に迷惑かけまくってしまうのであった。

電話を受ける度に病院から謝罪をされるのですが、逆に迷惑をかけて申し訳ないと謝罪を何度したことやら…

 

転院先へ移動

転院先の候補を複数出してもらい、現在の状況から受け入れできるところを何箇所か出してもらい結局決めたのは隣市にある病院。偶然にも友人の住んでいるマンションの隣の病院だったので、よく通ったことはあるが中に入ったことはない病院でした。

こちらで転院が決まり、今の急性期を見てもらった病院はほぼ二ヶ月で退院という形になった。

本当に何回も通った病院で、今思えばこうやってリハビリを続けられるのもこの病院のスタッフの方々の尽力によるものだった。本当に感謝をしている。

そんなスタッフの方々に何度もお礼をしつつ4月の中旬に病院を移動することに。

 

介護タクシーなるものも初めて利用しました。

下半身が不自由になったじじを病室から転院先の病室まで運んでくれるタクシーだ。料金は普通のタクシーよりも若干割高でしたが(距離にもよるが隣市で5000円以上)、車椅子に乗ってる人間を運んだ事がないので、専門の方に任せることにした。その方が安心だと相談員さんが教えてくれたので。

 

新しい転院先ではリハビリを専門にやっていくと説明を受ける。

急性期にいた病院もそうだけど、入院は入院費の他に着替えのレンタル、そして父のような体が不自由な人にはおむつの使用も加わるのだけど、「おむつは自分で用意する」か「病院が提携するおむつ使い放題サービス」を利用するかの選択肢がある。

これも一日換算すると結構な金額になるのだけど、都度おむつを病院に持っていく手間を考えると仕方のない出費だと割り切った。

初日はこういった必要なものの説明やリハビリの課題などを話し合って終了。

ここから長いリハビリ期間がはじまることになる。。。

 

 

転院先を探さなくてはいけない

一般病棟に移ってリハビリを開始したじじ。

この頃になると、命にかかわるような危険な状態はなくなり、家族の方も精神的には落ち着いた感じになりました。

 

病院のリハビリ科では、体のリハビリ、そして脳のリハビリをすることになりましたが急性期を脱したために、この病院からリハビリ専門の病院に移る提案をされました。

そもそも入院して良い時期も2ヶ月と決まっており、あと一ヶ月で転院先を決めなくてはなりません。

そこで病院のサポート相談員の方と今後についてのお話をすることになりました。

 

現在のじじの状態としては

・下肢機能の衰え

脳梗塞による高次脳機能障害(主に記憶障害)

・胃腸機能の低下

これらの状態で受け入れてくれる病院。そして空き室がある病院を探してもらうことになりました。

 

この時点で倒れてから一ヶ月ちょい。令和5年の3月の話です。

 

何度か話をしながら転院先は隣市にあるリハビリ専門の病院が見つかることになりました。相談員の方は親身になってくれて非常に助かりました。

リハビリを開始しましょう

カテーテル手術が終わって数日様子を見ることになったじじ。

喉は気管挿管の影響でまだ炎症があり、うまく食べ物が飲み込めないために食事は基本的に軟飯。おかずもとろみをつけて細かく切ったものを食事で出してもらってました。

ただ、食欲は普通にあるみたいで、出された食事はペロリと食べてしまうそう。

食欲が出てきたということは元気になってきた事だと思うので少し安心をしました。

 

手術が終わって、当面の目標は身体機能の回復。

なんだかんだで倒れてから一ヶ月くらい寝たきりの状態だったため、体はやせ細り足なんて骨と皮しかない状態。

ということで、お医者さんに「リハビリを開始しましょう」という話になった。

 

低酸素脳症になった人の多くは体になんかしらの麻痺が起こり、五体が満足に動かせなくなる人も多い中、じじは不幸中の幸いか心肺停止からの脳梗塞で脳にダメージは確実に負ったものの、麻痺は右手の小指は痺れてる程度で済んだようで、筋力さえ戻れば身体機能の改善は見込めるとの話。そして、リハビリは今このときにやるのが凄く重要で時間が経つにつれて回復の見込みを遠ざかるというお話も聞きました。

 

この頃には緊急治療室から一般病棟の部屋に移ることもできたので、あとはリハビリでどのくらい回復するのか。。。

このリハビリがとても長いものになった(今も続いてる)ことはこれから少しづつ書いていこうと思います。

カテーテル手術

前回の肺炎発症から二週間程度経ち、ようやくじじの体調も回復してきた所、カテーテルの手術を行う為に、事前の説明を聞きに病院へ行ってきました。

 

レントゲンを見ながら医師の方からお話を聞いたのですが、今回の心筋梗塞で心肺停止に至った原因となる血管の狭窄部分はだいぶ先細りしていて、これではまたすぐにでも心筋梗塞を発症するとのこと。

それに加えて、実は数年前にも心筋梗塞の軽い症状でカテーテル症状をしたことがあったのですが、どうやらその拡張した部分が劣化しており、今回この二箇所のカテーテルを行うとの説明を受けた。

 

元々病院嫌いだったじじは以前のカテーテル手術の後も、定期的な検診や薬を飲むことをずっとしてこなくて。

私も呆れるほどうるさく病院行け〜!とか薬飲め〜とか言っていたのですが、なぜか自分で編み出した健康療法(玉ねぎの酢漬けを作ってみたり)を過信しているのか、そういうことをしてきた結果の今回の心筋梗塞だったんですよね。

いつか倒れても知らんよ!?と口うるさく言っていたのですが、まさかそのとおりになるとはなぁ…というか、なってもおかしくなかった、というのが正しい言い方かもしれませんが。

 

手術自体は脇の下からカテーテルを入れてステントという血管をふくらます医療器具を入れるだけなので外科的な手術のような大変さはなくすぐに終わりました。

術後は麻酔が効いてるのか顔を見に行っても、やっぱりぼーっとしているようなので、今日は退散することに。

 

とりあえず血管を再度拡張したことにより、心筋梗塞のリスクは下げられたことにはなったのでしょう。少し安心をしました。